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B ” 安養院 ” からの続き
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01-1) 時宗 「 中座山大聖院教恩寺 」 _ 鎌倉市大町
お約束?の山門前から、
境内参道を横切る桜の幹越しに本堂方向。
鎌倉観音巡礼 第12番札所(聖観世音)
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01-2) 教恩寺解説ボード
< 文字起こし > 中座山大聖院教恩寺
[宗旨] 時宗 (じしゅう)
一遍上人がお聞きになった宗派で、
阿弥陀仏のお経をお唱えする事を本分とします。
総本山は藤沢にある遊行寺です。
【本尊 阿弥陀三尊】 (神奈川県指定文化財)
阿陀如来立・観音菩薩・姿勢菩薩の立像で
源頼朝が平重衡に平家の菩提を弔うように与えられたと伝わる。
【山門】
正面にに十六羅漢、裏面に牡丹彫刻がしてあるのが見所である。
【開基・開山】
開基は北条氏康
(1515~1571年 ・小田原北条の三代目当主、
元亀2年10月21日没 法名大聖院殿東岱公大居士)で、
開山は知阿上人と伝わる。
その昔は、浄土宗大本山である材木座の光明寺内にあったが、
延宝6年(1678年) 上人の ※※上人の時に現在地に移されたと伝わっています。
<※印)文字起こし時、判読不能>
【平重衛とのゆかり】
平重衛は、平清盛の子(5男)で、その容姿を牡丹の花にえられ、
ユーモアのセンスもある優しく爽やかで、
しかも凛々しくしく武勇を誇る平家の副将軍だったといいます。
重衡は、源平ので平氏が敗れ撤退の際、梶原景時に捕らえられ、
鎌倉へ護送されたのですが、
源頼朝の尋問に対しても武将らしい堂々たる態度と、
優雅な物腰の立派な人柄は頼朝を驚嘆させ、
捕虜の身でありながら特別な待遇を受け、
頼朝の仕女である干手(千住手の前)を侍らし酒宴を許されたという。
この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、
重衡が護送されるまでのつかの間、
癒やされた日を過ごす事が出来たといわれます。
やがて、重衡は奈良へ送され、
文治元年(1185年) 6月23日、木津川のほとりで 斬首処刑されたのですが、
その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏したとも、
又出家したともいわれ、
消息 不明となってしまったと言われる優しい悲恋の逸話があり、
そのまま生涯を閉じたとも、又出したともいわれ、
その酒宴をされた場所が今の教恩寺と伝わっています。
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02-1) 山門を潜った境内から、本堂方向。
本堂前で、拝礼 合掌。
入院中の友人が早期に退院できますよう祈念いたしました。
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02-2) 立ち入り不可の、庫裡の前庭とを分かつ植栽。
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02-3) 植栽の近景
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03) 見える範囲で、庫裡の前庭左方。
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04) 見える範囲で、庫裡の前庭右方。
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05) もう散ってしまったかナ?とダメモトで観に来た墓地内の藤棚。
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06) 期待以上にフジが咲いていた
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