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B ” 大巧寺 ” からの続き
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01-1) 日蓮宗 「叡昌山妙隆寺」 _ 鎌倉市小町
山門を潜ってからの、本堂方向。
参道には桜の木が多いけど、そのうちの蕾が開花を待つ一本を撮った。
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01-2) 開花を待つ蕾をズームアップ
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02) 石像と本堂
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03-1) ’ 鎌倉・江の島 七福神 ’ の ” 寿老人像 ” 安置堂 と 解説ボード
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03-2) ” 鎌倉・江の島 七福神 寿老人 妙隆寺 ” 解説ボード
鎌倉・江の島 七福神 壽老人 妙隆寺
当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤(つねたね)の子孫
千葉大隅守平胤貞<千葉胤貞>の旧地で、******
七堂伽藍を建立し妙親院日英上人を迎えて
開山しました。応永三十四年(一四二七年)の冬第二祖
久遠成院日親上人は甘一才の時に当山に来られ
堂前の池で寒百日間、水行などの修行を積み
永享十一年(一四三九年)京都へ上り「立正治国論」の
一書を足利六代将軍義教に献じて政道を
諫めようとしましたが、これを怒った義教は
日親を投獄し、陰惨な拷問でも屈しない日親の
頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ日親の
言葉を 奪ってしまいました。後年『なべかむり日親』と
呼ばれるように成りました。世の為、人の為ならば
いかなる苦難にも屈しない日親上人ゆかりの
妙隆寺には、欅の一本造りの寿老人の尊像が
置されて います。人々の安全と健康を守り
を司る福神です。
お供の鹿はその使いで、三千年の長寿を
象徴しているのです。
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04-1) 観光客さまが通ることは稀有であろう、本堂に向かって右側面沿いの通路。
向かって右方墓地の ’ 丸山定夫の碑 ”
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04-2) ” 丸山定夫の碑 ” 解説ボード
丸山定夫は、明治三十四年五月三十一日、
愛媛県 松山市北徒歩町に、海南新聞社編集長、丸山常次の 四男としてうまれた。
そして早くから演劇の魅力に 憑かれ、大正十三年六月三日、
築地小劇場が東京築地に 開設されるや、その開幕のドラを叩いた。
つづいて昭和三年まで同劇場にはたらき、昭和四年
新築地劇団の創立に加わって、十五年まで舞台に立ち、
独異の性格俳優として「新劇の団十郎」とまで言われ
新劇史上不朽の名をとどめた。人間としても、よく読み、 よく歌い、
よく飲み、よく悲し、友を愛し、人の世話を見、
純情で敏感で柔軟な心情を以て知る人すべてから 愛された。
が、昭和二十年八月六日、広島市堀川町九九番地、
移動演劇桜隊の宿舎でアメリカ軍投下の原爆に遭い、
十日間の苦悶の末、十六日、厳島存光寺の庫裡で
誰れにも看取られずに四十三年のいのちを閉じた。
その後、埋められた場所きへ知られずにいたのを、
最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの
協力で新しく記念碑が建てられた。知友代表として
その由来を記す。
一九六六年十月
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05-1) ” 丸山定夫の碑 ” 直近の、寒緋桜。
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05-2) ” 丸山定夫の碑 ” 直近、観光客さまに観られることはないであろう
寒緋桜をズームアップ。
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05-3) 逆光だけど、寒緋桜の開花をズームアップ。
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