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B ” 安国論寺 ” からの続き
(伝・源頼朝法華寺跡 ’ 白旗神社 ’ と 伝・ ’ 源頼朝墓所_供養塔 ’ 前を素通りして)
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01-1) 北条義時 「法華堂跡」 _ 鎌倉市西御門(にしみかど)
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01-2) 高台平地の、北条義時 「法華堂跡」 への階段
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02-1) 階段を登りきって、平地へ入ったところ。
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02-2) 嘗ては草ぼうぼうだったが、近年に大掛かりに整備された平地の
史跡標 ” 史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
史跡指定年月日 平成十八年七月二十八日 ”
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02-3) 解説ボード
” 国指定 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) ” の日本語部分
↑ 画像をクリックにて、拡大操作可能なページ へジャンプ。
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02-4) ARアプリケーションソフトのインストール方法と使い方 解説ボード
↑ ↓ 画像をクリックにて、拡大操作可能なページ へジャンプ。 QRコードが使えるかもしれない。
03-1) ARアプリケーションソフトの使い方 解説ボード
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03-2) 発掘調査を経て整備された史跡の遠景
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03-3) 雨落溝を模したような、
小石を敷いた白線状で囲われた ” 北条義時法華堂跡 ”
( 写真の鳥居左方の奥: 伝 ’ 三浦一族墓所<供養塔>やぐら )
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04) 写真03-3)の左方奥、伝 ’ 三浦一族墓所<供養塔>やぐら
_ ’ 宝治合戦/宝治の乱 ’ で 三浦泰村以下一族郎党500余人が自刃し、
葬られたところとされる。
直近で拝礼合掌の上、撮影は正中を外した遠景一枚に留めた。
しかし何故か? 木製の名称札すらも無いことが悲しい。
言いたくはないと思えど 書かずにはいられず、勝てば官軍 負ければ賊軍 大河ドラマへの忖度か?
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05-1) 二列で それぞれ2本の階段登り口。
片方の登り口に鳥居があるが、他方には 墓所やぐら開口部に鳥居がある。
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05-2) 中段の平場で、両階段の行き来は この場だけ。
むかって左: ’ 大江広元墓所 ’ と ’ 毛利季光墓所 ’、右: ’ 島津忠久墓所 ’
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06-1) 表示銘板 ” 毛利季光墓 ”
写真の紐は、表示銘板を吊るすため と 立ち入り不可表示 を間口に吊るし
立ち入り不可制限するもの
大河ドラマに合わせて急造の感アリでナンダカナァ・・・
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06-2) ” 毛利季光(もうりすえみつ) ”
_ 本姓名は大江 季光(おおえ-の-すえみつ)で、大江広元の四男。
所領相模国毛利荘/荘園 からとされる、毛利氏の祖であり毛利元就の先祖。
<毛利元就の姓(セイ_ カバネではない)は、大江 >
例外も多いけれども なるべく墓所は撮らない自己ルールだが その例外として、
各墓所直近で拝礼合掌のうえで斜め遠方からでのみ撮らせていただいた。以下同じ。
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07-1) 右隣、” 大江広元墓 ”
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07-2) ” 大江広元(おおえ-の-ひろもと) ” 墓所
cf. 大江稲荷(大江稲荷神社/大江稲荷社)
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08-1) 写真05-2)へ戻り、右の階段から ” 島津忠久 ” 墓所。
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08-2) 鳥居は此処に建つ、” 島津忠久(しまづただひさ)” 墓所。
_ 本姓名は惟宗忠久(これむね の ただひさ)で、所領の島津荘からなのか 島津氏の祖。
_ 古(いにしえ)の源頼朝 持仏堂/法華堂 所在場所に、
現在の源頼朝墓所<供養塔>(の原型)として
江戸時代後期に整備したのが島津重豪(しまずしげひで)で
その際に 源氏の菩提寺「勝長寿院」から墓塔を移設したと伝わるそうだ。(cf.勝長寿院跡)
近代の神仏分離に於いて、現在の場所に「白旗神社(通称、源頼朝法華堂跡)」が建立された。
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D ” 英勝寺 ” へ続く / 表紙ページ A ” 別願寺 ” へ戻る
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cf. アルバム