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先日20.08.10での撮影が失敗だったので、再訪して撮り直した。
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鎌倉駅東口から若宮大路を経て金沢街道を進み、
’ 岐れ道信号 ’ から更に十二所方面へ少し歩くと ’ 大御堂橋信号 ’ があります。
そこを右折し ’ 大御堂橋 ’ を渡ると ’ 文覚上人屋敷跡 ’の石碑があり、
ここを左折し ’ 田楽辻子のみち ’ を少しだけ進んでから
” すぐに右折 ” した場所から住宅地の谷戸へ入り数十m進んだ道沿い左側。
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01) 番外編で 手前からの道順として、
’ 大御堂橋(おおみどうばし) ’ 上から
’ 田楽辻子の道(でんがくずしのみち) ’ 沿いの ’ 文覚上人屋敷跡 ’ 史跡碑。
右方向は行き止り、進行方向は左。
少しだけ進んでから ” すぐに右折 ”。
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02-1) ’ 文覚上人屋敷跡 ’ 史跡碑
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02-2) ’ 文覚上人屋敷跡 ’ 史跡碑 / 上
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02-3) ’ 文覚上人屋敷跡 ’ 史跡碑 / 中
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02-4) ’ 文覚上人屋敷跡 ’ 史跡碑 / 下
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ここからが本編
03-1) 史跡 ” (阿弥陀山)勝長寿院跡 ” の石碑と
石碑に隠れた奥の供養塔。
撮り方で小さく見えてしまうが、高さは1mを超え1.5mほどある。
_ 鎌倉市雪ノ下 ’ 大御堂ヶ谷 ’ 地区
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03-2) 道路からは見えにくい左奥の、供養塔と石碑。
源頼朝建立のうち永福寺跡のように史跡として残ることはなく
開発により無残にも全て失われてしまい、
一説には昭和期に地元の有志が建立された供養塔だそうです。
左: ” 源義朝墓 ”(供養塔)、右: ” 鎌田政長墓 ”(供養塔)
例えば 伝・頼朝墓所と同様に 鎌倉時代は縁のある場所に五輪塔や宝篋印塔供養塔を
建てたそうだが、
北条政子墓所と呼ばれる供養塔は「寿福寺」「安養院」や 伊豆などの複数箇所に
在るけれども北条政子の遺体は勝長寿院の傍らに葬られたらしいとする一説もある。
武将と家臣家来の供養塔群の例は、鎌倉市材木座「隋我山 来迎寺」に在る。
( ’ 来迎寺 ’ は西御門にも「満光山 来迎寺」が在るが、 門前に ” 太平寺跡 ” 史跡碑が在る。)
( cf. 源頼朝 法華堂跡 <伝・大江広元墓所 / 伝・三浦一族やぐら墓所 > )
( cf. 崇寿寺跡 )( cf. 荒居閻魔堂阯碑 _ 現・円応寺の旧蹟 )
( cf. 無量寺跡 < 合槌稲荷社跡 > )(cf. 東勝寺跡 )(cf. 理智光寺跡 )
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03-3) 道路からは見えにくい左奥の、 ” 源義朝墓 ”( 供養塔)。
< 頼朝、義経ら父の供養塔 >
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03-4) 道路からは見えにくい左奥の、 ” 鎌田政長墓 ”(供養塔)。
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03-5) 道路からは見えにくい左奥の、石碑。
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03-6) 肉眼でも読めなかったが、碑文を撮っておいた。
写真を拡大すると、何とか読むことができる。
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04) 勝長寿院跡 の石碑
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05-1) ” 勝長寿院跡 ” 史跡碑
cf. 検索結果メモ: 勝長寿院跡
( 各リンク先の 研究者さま / 報告者さま Webサイトにて勉強させていただきました)
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05-2) ” 勝長寿院跡 ” 史跡碑 / 上
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05-3) ” 勝長寿院跡 ” 史跡碑 / 中
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05-4) ” 勝長寿院跡 ” 史跡碑 / 下
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06) 失礼ながら前回20.08.10には気づかなかった、
ソレも其のはず 史跡を囲う柵外右隣に鎮座する石祠。
この谷戸 ’ 大御堂ヶ谷 ’ は行き止りで
’ 田楽辻子の道 ’ へ戻り更に進むとクルマの往来が激しい金沢街道を通らず閑静な道なりに
「報国寺」( ≒ ’ 平成巡礼の道 ’ ~ ’ 旧華頂宮邸 ’ )まで行くことができて、
手前の途中から道を逸れれば「杉本寺」手前と「浄妙寺」手前まで行くことができる。
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B 鎌倉市浄明寺 ” 熊野神社 ” へ続く
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