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B ” 諏訪神社 下社 ” からの続きで
嘗てフリーランスながら常駐勤務とした湘南台の企業へクルマ通勤をしたが、
行き帰りに横の幹線道路から鳥居を見ながらも参拝の機会を逸していた。
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01-1) 源義経公を祀る神社として知られる、藤沢「白旗神社」社頭。
神橋 と 鳥居、社号標。_ 藤沢市藤沢2-4-7
公式Webサイト : http://www.shirahata-jinja.jp/#
車両は幹線道路から写真の手水舎先の左側から、
参道を横断して右方の境内 兼 駐車場へ進む。
まぁクルマならば仕方ないけど、エンジンかけたまま横切るのも ちょっとナァ・・・
と感じ 今日はバイクだったのでエンジン切って社殿方向へ一礼して押しながら進んだ。
しかし 帰りは、バイクに乗ったままながらも一時停止して一礼した。
在住近隣での大きな寺社は 鎌倉「鶴岡八幡宮」だけど、
境内の東西を行き来する横断の際は ミーハーの私メでも 一礼をする。
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01-2) 社号標 ” 白旗神社 ”(しらはたじんじゃ)
寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )
源義経 ( みなもとのよしつね )
天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
国狭槌尊 ( くにのさずちのみこと )
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02) 白旗神社由緒解説ボード
リンク先での拡大操作で由緒解説ボードを読むことが可能かもしれない、
Nikon Image Space アルバム → クリック
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03-1) 手水舎
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03-2) 手水舎、向かって左上方。
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03-3) 手水舎、正面上方。
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03-4) 手水舎、向かって右上方。
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03-5) 手水鉢
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04-1) ” 源義経公 武蔵坊弁慶公之像 ”
2019年(令和元年)10月、源義経公没後830年の記念事業の一つ
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04-2) ” 源義経公 武蔵坊弁慶公之像 ” 建立経緯などの解説
( 台座の向かって左側面 )
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05) 下段境内の向かって左側区域。
庚申塔群・右端の道標 と 奥の神社 方向。
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06-1) 文化財の解説ボード
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06-2) 藤沢市指定重要文化財(有形民俗文化財)
” 寛文五年庚申供養塔 ” 解説
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06-3) 藤沢市指定重要文化財(建造物) ” 江の島弁財天道標 ” 解説
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06-4) 庚申塔群 と 道標
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07) 下段境内の向かって左側区域の奥。 二基の 末社祠。
標札が無いことと、公式Webサイトでも紹介されていないし施設配置図も載っていない。
境内にも施設配置図がない。他の参拝者さま公式Webサイトでも紹介されたのを未だ未確認。
狐の神使(しんし)石像から稲荷社であろうが、’ OO稲荷社 ’ の標札が有ると ありがたい。
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08-1) 向かって左側の神社
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08-2) 向かって左側の祠
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09-1) 向かって右側の神社
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09-2) 向かって右側の祠
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10) 向かって右側の境内 兼 駐車場。
写真左奥 は社務所(と 弁慶藤棚)、右奥は義経藤棚。
開花時期は見事なのであろうが、私の無知で藤棚の近景を撮り損なった。
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11) トイレ
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12) ” 湯立神楽(ゆたてかぐら) ” 解説ボード 藤沢市指定重要無形民俗文化財
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13) 社務所
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14) 祈祷殿
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15-1) 社殿への参道階段、角がある狛犬 と 角がない獅子。
私の他所過去ページでは ’ 角がない石像を獅子 ’ と表示してきたが、
’ 角がある 狛犬 ’ を見かけるほうが稀なので 総じて ” 狛犬 ” とした経緯がある。
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15-2) 向かって左側で、角がある吽形の狛犬。
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15-3) 向かって右側で、阿形の獅子。(写真右は、石祠と石碑群。)
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15-4) 石祠と石碑群
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16) 中段境内の参道
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17-1) ” 源義経公鎮霊碑 ” 解説
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17-2) ” 源義経公鎮霊碑 ”
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18) 上段境内への参道階段
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19-1) 向かって左側の狛犬
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19-2) 向かって右側の狛犬
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20-1) 社殿
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20-2) 拝殿の扁額
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20-3) 拝殿向拝の、向かって左上方。
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20-4) 拝殿向拝の、中央上方。
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20-5) 拝殿向拝の、向かって右上方。
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20-6) 向かって右側面の、拝殿 ~ 本殿 方向。
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20-7) 本殿の右側面上方
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21-1) ” 弁慶の力石 ”
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21-2) ” 弁慶の力石 ” 解説札
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D ” 腰越辺りの道路で江ノ電通過待ち ” へ続く / A 「補陀洛寺」 へ戻る
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.https://mitch1.blog.ss-blog.jp/2020-08-29-5
私自身が由緒解説を めったに熟読しない質(たち)のミーハーであるし
機器の取り扱い説明書すらもロクに読まない者だけれども、
これを機に 以後は改める所存と嘯いて 参照先ブックマークリンクだけに留めず
’ 神奈川県神社庁 ’ さまWebサイトから 参照先を明記の上で転載させていただきました。
転載元: https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=561&cd=1206042&scd=&npg=2
以下、転載。
[白旗神社略誌]
御祭神 寒川比古命・源義経公
配神 天照皇太神・大国主命・大山祗命・国狭槌命
祭礼日 七月二十一日
由緒 往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる、
文治五年源義経奥州にて敗死し、
其の首を黒漆櫃に入れ、美酒に浸し持ち来り腰越の里にて和田太郎義盛、
梶原平三景時 甲直垂を着け甲冑の郎従二十騎を相具して首実検をなし
此の地に埋めたり、斯る実事に基きて宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、
社前領家町に首塚、首洗井あり享保三年紀州公姫君参勤交代の砌此の陣屋に於て
急に腹痛を起し大神に祈願せし処忽に全癒す、
木杯一個紋章幕、高張を奉納し例祭には十万石の格式有と伝ふ、
享保四年十二月二十一日神祀官領従三位吉田兼敬公より正一位階を授く。
宝暦二年社殿を再建し旧坂戸町総鎮守となし白旗神社と称つ、
文政三庚辰年二月八日火災に罹り社殿及古書類等を焼失す、
文政十一子年六月より天保六乙末年冬に亙りて社殿を再建し現在に至る。
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白旗神社と義経
白旗神社は、およそ七百年前、源義経の霊を祀ったものであります。
義経は一一五九年(平治元)、源義朝の六男(八男また九男ともいう)として生れ、
幼名牛若丸、母は常盤御前、二歳の時、義朝が平治の乱で平清盛に敗死し、
危うく殺されるところを赦されて、兄頼朝は伊豆に流され、
牛若丸は京都の一條長成の庇護をうけて生成しました。
七歳の時、母は出家させる目的で鞍馬山へのぼらせ、名を遮那王丸と改めました。
しかし遮那王丸は憤然として父祖の恥をそゝごうと思い立ち、日夜武芸を習い、
十六歳の時三條季春という金商人に伴なわれて、はるばる奥州に下り、
平泉の藤原秀衡に頼ることになりました。
或いは、十八歳の時ひそかに都に上り、鬼一法眼に従って兵法を学び、
その後奥州に下ったという説もあります。
二十二歳の時、頼朝が以仁王の令旨を奉じて平家追討の軍を起すを聞き、
佐藤継信、忠信等の豪雄を従えて平泉を出発し、
夜を日についで頼朝の陣営に馳せ参じました。
一一八四年(壽永三)、頼朝の命をうけて兄範頼と共に木曾義仲を討ち、
ついで平宗盛をひよどり越の奇襲で一の谷に破り、
更に平家の大軍を屋島に討ち、壇の浦に追いつめて滅ぼしました。
そこで義経は軍状を頼朝に報告するため、平家の大将宗盛等の捕虜を鎌倉に押し送って
東下したのですが、
頼朝は義経に勝手な行動があったことを怒って鎌倉に入ることを拒みました。
義経は誓書(腰越状)を差出したりして誤解を解こうとつとめましたが、
遂に許されなかったので、大いに頼朝の措置を怨らんで京都へ引返し、
ここに兄弟の間は一層けわしくなりました。
義経は頼朝から追われる身となり、武蔵坊弁慶等を従えて、
奈良吉野など方々に隠れまわること三年、頼朝の探索がますます厳しくなったので
静女とも別れ、山伏姿に假りし奥州に下り、再び藤原秀衡を頼ることにいたしました。
秀衡は義経を衣川館に入らせて厚く待遇しましたが、間もなく秀衡が病死し、
その子泰衡が継ぐと、頼朝の威を恐れ、
父の遺言に背いて義経の居館を急襲して自殺させました。
時に一一八九年(文治五)、義経は三十一歳でありました。
義経の首は黒漆の櫃に入れ、美酒に浸して届けられたので、
頼朝は和田義盛、梶原景時に首実検をさせましたが、
たとえ兄弟の間が不和であったためにせよ、余りにも滲めなその姿に、
見る者皆袖をぬらさない者はありませんでした。
首はそのまゝ河原へ取り捨てられたのですが、不思議にも金色の亀にすくいあげられ、
背に乗せて境川を藤沢宿の河辺に運びこまれ
「われは不幸にして悪人の舌頭にかゝって高館の露と消えたが、
その首さえ捨てられて怨魂やる方なし。汝等よく葬りくれよ」と告げたので、
里人は大いに驚きその首を洗って丁重に弔いました。
これが現在の首洗井と首塚であると伝えられます。
一方鎌倉の御所では、義経の怨霊に苦しめられ、頼朝は藤原次郎清親に命じ、
首塚から一町ほど北の亀の子山に社を建てゝ義経の霊を祀らせました。
これが即ち、白旗神社の起りであります。
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御社殿
現在の御社殿は文政十一年六月より天保六年十二月にわたって造営された、
本殿、幣殿、拝殿を連ねた典型的流権現造りであります。
華麗な彫刻は代表的江戸時代を偲ぶ神社建築の文化財として貴重なものです。
昭和五十四年六月御社殿腐朽による大改修工事によって在来の御社殿が一新した。
木造銅板葺流権現造り 本殿 三.四五坪、幣殿 二.九〇坪、拝殿 八.〇二坪
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例祭と神輿渡御
白旗祭りは昔から夏の景物で七月十五日の出御祭に始まり
七月二十一日の大祭に続いて午後一時より神幸祭が行われる。
宝暦七年、義経、辧慶の神輿二基が作られ白丁姿で氏子渡御があり、行列が従う。
各町御酒所に於て御神楽の奉奏があり、氏子、崇敬者の家運の繁栄を祈るのである。
相模一帯はもとより、鎌倉、三浦、京浜地方より集ってくる人々の群れでにぎわい、
湘南地方の夏祭りの中でも名物の一つである。
これは藤沢宿場時代にこの地方一帯の商業の中心になっていたからで、
藤沢の商人ことに坂戸町、領家町等の問屋街ではこの日やって来たお得意客に
お銚子一本と赤飯をふるまってお祭りの接待をした。
その頃の農村では一年の勘定は盆と暮にきまっておりましたが、
藤沢の問屋と取引きしていた農村は何時か白旗祭りの日を勘定日と定め、
これが「白旗勘定」と呼ばれる起りであります。
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特殊神事
十月二十八日、白旗神社秋祭に行われる湯立神楽(八座)の神事があります。
これは江戸時代より、
この地方に伝わる神楽で特徴は五色の注連(シメ)と竹で天蓋(テンガイ)を造り、
この山作りの構造と注連(シメ)切は秘伝とされております。
神楽の一つに「笹ノ舞」がありますが、
沸騰したお湯に笹を浸し参拝衆の頭上に散らかしかける、これが湯花と言います。
この湯をうけた者は無病息災としての信仰があります。
又最後に「剣ノ舞」があります。天狗の面をつけ鉾(ホコ)を持って四方のクジ切と
神前に供えた投餅をまく、
そのとき面をつけた山ノ神が杓文字(シャモジ)を持って現れ
道化を演じながら参拝衆に餅をまく、
この特殊神事は無形文化財として今日まで伝っております。
以上
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